『お父さんはお人好し』大好評につき再放送決定!

先月、5/29に「発掘!ラジオアーカイブス」で『お父さんはお人好し』が放送されました。

全国で大きな反響があり、再放送が決まったそうです。

このホームページにも多く方から感想が寄せられています。

 

 619() 13.0513.55  NHKラジオ第一

        前回お聞き逃しの方は是非お聴きください。

 ※6/26(土)13:55まで、下記の「NHKらじるらじる・聞き逃し」で聴くことが出来ます。

   写真・上(浪花千栄子さん・長沖一さん・花菱アチャコさん)

   写真・下(江戸家猫八さん・一龍齋貞鳳さん ・三遊亭小金馬さん)

 

 


発掘! ラジオアーカイブス 「お父さんはお人好し」(1962年放送版)

   5月29日(土)午後1:05放送 聞き逃し配信6月5日(土)まで

 

 朝ドラ「おちょやん」のモデルの浪花千栄子と花菱アチャコが出演の「お父さんはお人好し」の音源発掘の放送です。 

 この番組は、NHK大阪放送局、いわゆるBK旧会館の正面玄関ホールのラジオ第一スタジオで公開制作されていて、懐かしい想いをお持ちの方の投稿をお待ちします。 

 

2020.5.20. 福井清春(放送を語る会・大阪)

 昔懐かしいラジオドラマの御紹介

『お父さんはお人好し』が放送されます!

朝ドラ「おちょやん」にも登場したラジオドラマです。

★529() 13.0513.55  NHKラジオ第一

-----------------------------------------------------------------    千代のモデルとなった喜劇俳優・浪花千栄子とエンタツ・アチャコで一世を風靡した花菱アチャコの夫婦役に加えて、『お笑い三人組』で人気の江戸家猫八・一龍齋貞鳳 ・三遊亭小金馬が出演するスペシャル回。(1962年放送)

---------------------------------------------------------   『お父さんはお人好し』の脚本は 長沖一(まこと)氏。    ドラマでは長澤誠という役名で生瀬勝久さんが演じていました。


《千葉県 渋谷幸夫さん》

「お父さんはお人好し」を聞いて

友人から勧められて久しぶりにラジオを聞きました。懐かしく昔が甦りました。

当時東西のテレビ・ラジオの人気番組の出演者が合体した楽しい会話の連続で、何となくギスギス感のある今と違い「ほのぼの感」がありました。特にアチャコと千恵子の掛け合いは面白く聴かせてもらいました。

出来ればアチャコの「めちゃくちゃでござりまする」を聞きたかったなぁ!

ラジオは普段余り聞きませんが、テレビはいわゆる「お笑い芸人」が席巻し、どうでもいい様な事をやっています。

昔の様に芸達者な喜劇人がいなくなるのではと危惧しています。

 

《 どりちゃんさん 》

お父さんはお人好し」楽しく懐かしく視聴しました。連続して放送を望みます。この番組放送があるのをしれば視聴者は沢山あると思います。AMラジオなくなるとの報道このようなこのような再放送で年配者ラジオに帰ってくるのではないでしようか?

 

 《 後藤英雄さん 》

お父さんはお人好しの再放送何気なくラジオ聞いていて聞き入りました。連続して、やって欲しいですね。PRもお願いします。そうしないと放送あるのかわかりません。

 

《 山本淑子さん 》 

6月19日ラジオ放送「お父さんはお人好し」の感想:朝ドラの「おちょやん」のマイク前の放送風景が重なり想像していましたが、聴いているうちに三百万円の行方が一体どうなるのかといつの間にかドラマの筋書きに聞き入ってしまいました。浪花千恵子さん、花菱アチャコ・江戸屋猫八・一龍齋貞鳳・三遊亭小金馬各氏お声を何十年ぶりかにお聴きして、お声を覚えていた自分に感心しました。内容はテンポも早く、現代にも十分通用する面白さで楽しみました

 

《 竹中美根子さん 》

60年前に聴いていただろう懐かしい「お父さんはお人好し」を聴きました。アチャコさんと浪花千栄子さんのやりとり  軽妙な語り口が素晴らしかったです。お笑い3人組も思い出しました。テンポのいい掛け合い 風景が目に浮かぶ様でしたネ♪ 吉本新喜劇の笑いでは見られないほのぼのとした良さを感じました。数本しか残っていない貴重な放送を聞けて幸せでした。有難うございます

 

 《 伊藤勝利さん 》

6月19日午後「お父さんはお人好し」 懐かしく聞きました。最近のお笑い芸人とは違ってなんか昭和の匂いがしました。

 

《 S.M.さん 》

このドラマから当時の大阪の人々の暮らしぶり、街の空気感が良く伝わってきて、懐かしく、楽しく拝聴しました。

この時代の我が家のラジオ事情を思い起こしてみました。ラジオの音声は、いつも流れていたように記憶しています。

民放の番組が多かったようです。三橋美智也、美空ひばり、神戸一郎、松山恵子、若原一郎等々、往年のスターの歌声。

変わったところで、悩みの相談・融紅鸞(とおる こうらん)さんの決め台詞「あんさん、別れなはれ」は覚えてしまいました。

野坂昭如作詞、いずみたく作曲「ラジオ聴くなら」で始まるステーションソングの放送局でした。

60年代前半は小学生、早く寝かされ、20時台には布団の中、ラジオからの鉄砲光三郎の軽快な「河内音頭」、「上方演芸会」など

聴きながら就寝。

また、子ども向けドラマも楽しみました。1959年から1960年まで、毎日放送ラジオで放送された「まぼろし探偵」をよく聴いていました。テレビでも放映されるようになり、その身なりが分かって駄菓子屋で買ったアイマスク、お父ちゃんのハンティング帽、お母ちゃんのスカーフをマフラーにおもちゃの拳銃を持ち、主人公になってバイク代わりの三輪車で家の前の道を走り回りました。今で言うコスプレです。

同年代に始まったテレビドラマ「怪傑ハリマオ」にもはまりました。タオルをターバンにして、ハリマオになりきり、隣の木工所で乾燥させるために積み上げた木材に上って見得を切りました。おちょけた様を見たときに同級生がよく叫んでいたフレーズが蘇ってきました。「なんや、あれ、漫画やんけー!」。

 

「お父さんはお人好し」から大分脱線してしまいました。まことにすまんこってす。

 

《 大阪 Y.T さん 》

放送された1962年というと小学3年生のころでしょうか
花菱アチャコさん、浪花千栄子さんたちの声を懐かしく感じました、脳みそのどこかに記憶されているようです
そのころのラジオは足踏みミシンの台ぐらいあったように思うのですが当時の記憶ですから実際はもう少し小さかったのかもしれません。子供向けの番組はラジオの前に座って聞いたのを思い出します
声の記憶はあるものの、「お父さんはお人好し」は聞いたことはあったのかなかったのか?

話は現実にはありそうもない大金をめぐる話ですが、当時の人のかかわりや生活感がテンポよろしくポンポンと、まるで漫才のようで、あっという間に時間が過ぎていきました。
年末の大掃除で「はたきでパタパタとはたく音」、「障子をピシャリと閉める音」など
最近ではあまり聞くことが無くなった音が当時を思い出させます、ラジオから流れる当時の人達と一緒に笑ってほっこりした気分になりました。

《 長沖 渉さん 》
NHKラジオ第一「発掘ラジオアーカイブス」「お父さんと三人組」
5
2913:05~~


そのころ、わたしは小学校5年生でした。

父と一緒にラジオを聞いていて、生意気にも「300万円も、知らん人に

渡すわけないやないか」と批判しました。

父は笑いながら「それがドラマやねん」
そのころは納得できませんでしたが、今回聞き直して、やっと理解できました。

現実にはありえないからフィクションは成立する。

そして、お笑い三人組の貞鳳さんは女には目がないドンファン、

ナンパのために彼が通りがかりのアチャコに「はい、交代」と

三百万の紙包みを渡してしまう。

 

この二つの喜劇をコラボした醍醐味であることがよくわかりました。
作・長沖一(まこと)の響きが懐かしかったです。

 

 

 

《 ときめき屋正平さん 》

    みなさまの投稿を読んで。つぶやきました。

 真空管式ラヂオ五球スーパーラヂオ というのがあった。そして

 家族・一家みんなで聴いた夕食後の楽しみ みんなで笑った 

 真空管の 大・小・太・細 電源が入ると 橙色にボヤっと光り輝いていた

 

《 福井清春さん 》

 「お父さんはお人好し」というタイトルを聞くだけで、当時の家族の様子が浮かんできます。

私の趣味の仲間にも今回の放送をお知らせしたところ、7人の方々から感想が届きました。

『アチャコ・浪花千栄子の声に、当時の思い出がよみがえりました』というのが共通した感想でした。

当時、我家は両親と三人兄妹の五人家族。

夕食を終え、家族そろって、父親手作りの木製棚に鎮座した真空管ラジオを聴いていました。

私たち子供三人は敷かれた布団の中で、両親は何か作業をしながら聴いていたように記憶しています。

アチャコの独特な台詞と浪花千栄子のテンポのいい合いの手のような台詞はもちろん、

効果音(SE)で流れる、自転車のベル・自動車の警笛・雑踏の音も懐かしく聴きました。

調べてみると、月曜日の19:30から「三つの歌」、20:00から「お父さんはお人好し」、

20:30から「私は誰でしょう」と、人気番組が連続していたようです。

「三つの歌」のテーマソングの歌詞は今でもハッキリ覚えていて歌えます。

「お父さんはお人好し」の聴取率は30%で堂々の一位だったようです。(1960NHK調査)

今回の番組は1962年の放送で、ちょうどラジオからテレビへ娯楽の主役が入れ替わる時代。

そこで、テレビで人気の「お笑い三人組」と、今風にいうコラボ企画だったと想像します。

やがて、我家にもテレビがやってきます。

ある日、小学校から帰ってくると、家の屋根にアンテナが立っていて、大喜びしたことを鮮明に覚えています。

以降、テレビ視聴の記憶だけが残っています。

 時代の大きな変わり目だったんでしょう。

 

《 福井いく代さん 》

 「お父さんはお人好し」は子どもの頃、ラジオの前で楽しみに聴いていた番組です。

浪花千栄子さんとアチャコさんの絶妙な会話のやりとり、間の取り方。

今回の放送の中で、お母さんがお父さんにお金を手にしたいきさつを問いただす場面・・・

「お父さんそこを詳しく説明しとうくなはれ」と言う台詞、現在のミルクボーイの漫才で

「そこんとこもうちょっと詳しく説明してくれる」に通じる様な気がしました。

 子どもの頃、楽しみはもっぱらラジオで、夕方放送のラジオドラマ・安本未子の日記より

「にあんちゃん」も楽しみに聴いていました。そのテーマソングは今でも覚えています。

また、「日曜名作座」これは確か夜10時頃の放送で、眠いのを我慢しながら聴いていたことを

懐かしく思い出します。

 

《 K.O.さん 》

529日(土)午後105155で放送された、お宝”ラジオドラマ「お父さんはお人好し」は感動もので浪花千栄子さん、花菱アチャコさんの顔が浮かびました。

60数年前にタイムスリップしましたねー。真空管式ラジオで親が聞いているのを傍で聞き、小学生まで聞いたかなー。

むろん、放送がどのようにされているか知る由もなく。「おちょやん」で演じていた「生セリフの距離感」「音響効果音テクニック」「生バンド演奏音楽」など、当時のスタジオ状況を思いながら聞きました。

(NHKらじるらじる「聞き逃し」で1週間は聞けます)

白黒TV購入まではラジオが中心。「三つの歌」や「赤胴鈴之助」などのラジオ番組イントロのサワリ集がネット検索で聞けます。懐かしいー。世にトランジスターラジオが出てから夏の縁台で蚊に刺されながら父親とタイガース戦ナイターを聞いたのも鮮明に残る。これはABCラジオです(笑)

 

《 山村惠一さん 》

子供のころ放送時間を待って、家族で箪笥の上の真空管ラジオで聞いていました。

冒頭のテーマ音楽にのせて、配役の紹介が懐かしい響きでワクワクしながら聞きました。もっとゆっくりとした番組ではなかったかと記憶していましたが、アチャコさんと浪花千栄子さんの掛け合いが気持ちのいいテンポで、やっぱり笑わせてももらいました。いまでは聞くことがない「どんならん」などのこてこての大阪弁満載で上方漫才の基本ですね。

写真は2年前に壊れたラジオをヤフオクで手に入れ、修理再生したもので、SWを入れると暫くしてブーンとしたハム音のあとに柔らかい優しいおとがいいねでした。

 

 

《 今井 潤さん 》

1962年の大みそかに放送された「お父さんと3人組」です。

アチャコと浪花千栄子にお笑い3人組の江戸屋猫八、一龍齋貞鳳、柳家小金馬がからむ、喜劇でした。

頼りないアチャコとしっかり千栄子さんのやり取りは漫才のようで、懐かしい味でした。

東京の3人組は猫八が亡くなり、息子の子猫も故人で、孫が跡を継いでいます。 貞鳳も6年前に故人になりました。

健在なのは小金馬で今は金翁で92歳、息子が金馬を継いで、先日テレビで息子の「らくだ」という噺を聞きましたが、良かったと思います。

 

当時のラジオの録音は「お父さんはお人好し」は11年間500回放送しましたが、残っているのは、たった5本だそうで、最後に自宅の押し入れに残っていたら、お知らせくださいとアナが呼びかけていました。

私は元NHKの棚橋昭夫さんのラジオ深夜便「懐かしの上方演芸」の再放送を希望します。 面白すぎる番組でした。

 

《 ときめき屋正平さん 》

思いのほか、早口の話し方でした。 当時一万円札が流通していた。 という驚き。

地下鉄運賃20円だった。

「おでん屋」と三人組がいい、アチャコが「かんとだき屋」という屋台の場で

三人組とアチャコさん、また、娘と放送記者の夫たちもここで出会う重要な場です。

放送記者がでてくるのも珍しい。

 「あんな かさの 高い人」

 「あんた どこあるいて なはったんや」

 「かってに からだが うごっきょり まんねん」

 「いうて まっしゃ おまへんか」

 「わたしに わたすはずが おまへんや ないかいな」

 「おこったら どんならん がな」

上記これらの大阪地方語をしゃべるひとも最近は聞いたこともない。

べたべたのなまりでしゃべると孫がけったいな顔をします。 しらんけど。

また、〽 手柄立てずに帰えらりょか   ともうひとつ「軍歌の一節」が歌われていました。

当時日常の会話で、軍歌がうたわれるのは普通のことでした。

短い時間でしたが三人組のセリフも個性があり、猫八さんの汽車の物まねも入って特徴が

さりげなく、しっかり現れていました。

小生、昭和36年4月大阪市電で戎橋停留所をおり、戎橋北詰めのキリン会館の西向が

いのビル6階が初任勤務場所でした。 青・赤のインク壷、ペン軸とペン先、そろばん、

作業服を支給されました。 戎橋上では軍帽・白衣姿の傷痍軍人がアコーデオンを弾き、

足元には大きな募金箱が置かれていました。

 

暗くなると道頓堀をはさんで南向かいにグリコのランナーが走り続けました。