2021.3.9. 山村惠一(放送を語る会・大阪)

 

NHKスペシャル 私と故郷と原発事故  GTV 39日 22時~2250分放送

  波江出身ディレクター 人々の10年を訪ねる旅 同級生や子供たちの涙

 

東日本大震災10年の関連番組の中で、原発事故に関わるNHKスペシャルを視た。

それは、取材者と取材される側との距離・関係のありようを考えさせるものともなった。

放送では、全町民避難を余儀なくされ、今も大部分の町民が帰還できていない波江町。そこで生まれ育ったNHKディレクター(東京・報道)が、浪江町に通い「自分にできることは何か」と取材を続けてきたそうである。震災後10年、今回の取材で果たしてディレクターは、自分に出来ることは見つけることができたのだろうか?

震災後当初から、浪江の町長から「住んでいないお前に町民の気持ちが判らない」など厳しい言葉がでる中だが、幼馴染や同級生との話、ご近所の人や取材した人のその後などで構成、浪江町出身者だからこそ聞ける話をとしている。しかし、取材、被取材者の間にある壁、戸惑い、わだかまりなどが感じられ、つまり、「出身者だからこそ」からはかなり離れたものにとどまっているとの感想を持った。

ご近所の方のこの先はないとのつぶやきに黙ってじっと聞く、続いて、同級生2人と焚火を囲んでの談論では、「おまえってさ、いちいち許可を得て入る自分ちは浪江じゃないよ」と絶望に近い話ののち、もう一人が「外から見て俺たちはどうしたらいいと思う。一緒に学校に通っていた君の意見は聞きたい」と涙をにじませての問いかけに、答えに窮し言葉を失うディレクター。浪江を離れていた後ろめたさなのか、遠慮なのか、それとも、取材者としてわきまえ?客体化しなければの性なのか?さぞ、彼はディレクターの次の言葉を待っていたのでは。一視聴者の私でさえ切に思う。

番組では、避難先の千葉から浪江町議会議員に当選した同級生や、避難が判るといじめや差別に遭いながらも、同級生とのつながりで困難を乗り越えられたことや、地区や避難先での分断・差別の楔となった賠償金をめぐり、ありがたいと思う反面、金が人間をダメにする赤裸々な話しが聞けている。ここにきて、浪江町が地場産業を興せてなく、除染や廃炉作業のみが働く場でしかなく、避難先での時間の経過もあり波江町から住民票移転者が続き、町民同士のつながりも希薄になり、もう無理しなくてもいいとの空気が流れている現状も報告されている。

ディレクターには浪江町出身だからこそ、上下を脱ぎ捨てて本音をぶっつけて、一緒に怒り、一緒に泣き、一緒に笑って共感しあえる素の取材者の姿を見せてほしかった。 

先の町長は「どこにいても浪江町民」と言いつづけていて亡くなれたが、その言葉をいまディレクターはどう受け止めるのと問いたい。