NHKドキュメンタリー「描き続けた“くらし”戦争中の庶民の記録」    2018年11月上映会(香芝市) 参加者の感想&戦争の記憶(記録Nさん)

 ✫ K氏 姉が八尾空港で挺身隊で働いていた。

 

 ✫ Y氏 小学校入学の年に太平洋戦争始まった。自宅に防空壕あった。三重県だったので、敵機は大阪などの都市に空襲して大体素通り。たまに余った爆弾を落として行った。記憶にあるのは、広島から原爆後に編入してきた転校生。「ピカドン」と言う言葉を初めて聞いた。さっぱり分からなかった。そのころの日本は情報が伝わらない。食べ物はなかった。物々交換。少年の私は運搬係。戦争はなぜ起こるのか?と思う。

 

 ✫ T氏 昭和17年生まれだが、かすかに覚えていることもある。ドキュメンタリー見て思い出した。電灯に布をかぶせていたことや、防空壕に避難したこと。学校ではのみとり粉(DDT)を頭からかけられたりした。

 

 ✫ I氏 昭和13年生まれでその当時北鮮(朝鮮半島の北、北朝鮮)に居た。おやじが商売をしていたので。小学1年で終戦。帰ってくる時38度線渡って帰ってきた。南鮮(現・韓国)から船に乗って帰ってきた。着の身着のまま。その時自分もDDTをふりかけられた。

 

  I氏奥様 昭和17年生まれ。父がニューギニアで戦死。父が戦死したとき、お腹の中にいた。母と残された子供で生きていかなければならず、本家にずいぶん助けてもらった。食事や、学費など。父が戦地から送ってきたハガキ今でも残っている。食べ物がなく、なんきんのツルやさつまいもをよく食べた。

 

 ✫ TA氏 台湾で敗戦迎えた。航空隊にいて整備の仕事していた。台湾は戦争中意外と静かで、ドンパチの経験はあまりない。昭和1812月から2年間暮らした。飛行場の空襲で足にけがした。復員したとき、家族がどこにいるのかわからなく音信不通だった。名古屋の港に着いて、私もDDT。東京の我が家に戻ったとき、終戦から半年たっているのに、見渡す限り焼け野原に驚いた。銃後のみなさんがいかに大変だったか、と感じた。

 

 ✫ O氏 戦争が始まった年に生まれた。静岡県の田舎なので、戦争のことあまり記憶にないが、ドキュメンタリーに出てきた「玄米つき」は覚えている。とにかく戦争してはいけない。父が戦死した。小さかったので父が出征する時にサヨナラしたのを覚えていない。おばあちゃんが「お父さんに会いに行きましょう」と連れて行ってくれたのは覚えているのだが。今、いろんな情報があって、父が戦死ということになっているが、餓死したのではないだろうかと思うときがある。

 

✫ KA氏 今日のビデオ上映は特別に良かった。いちばん苦労している庶民の姿だから。人間どうしが戦争するのはダメ。

 

✫ M氏 戦後生まれ。父は大正生まれで体格も良く満蒙開拓民として15・6歳で満州へ。その後召集され7年戦地に。戦後酒を飲みながら戦争の話をしていた。ノモンハン事件の話も。五味川監督の映画のような事実。「なぜ生きて帰ってきたか」と上官に10日間殴られたこと。「重営倉」にも入れられた話も。また、中国で歩哨をしているとき、兵隊仲間が戯れに中国の農民を銃で撃ったりしたという。父も撃ったのではないかと思っている。アムール河が凍っていて、捕虜にその氷を割らせて、捕虜を並ばせ、兵隊の度胸試しに銃剣で突き刺す、氷の下に落とす、そんなこともあったそうです。父は終戦の時ラバウルからよく帰ってきたと思う。父の話を聞いて日本は加害者でもある、と思う。

 

 ✫ S氏 18年生まれ。八尾の戦跡めぐりで、八尾高校の「きつね山」というのが射撃訓練場のことを隠す名前だったと知る。写真クラブもしているが、橿原神宮にて、建国記念日に写真撮影会をするなど、歴史に逆行していると感じる。

 

                        (文責 屋根)

 

管理人から この視聴会感想は、ときめき屋正平さんが12月の上映会に参加された際に(当HP掲示板に投稿)、その場で配布された前回上映の「NHKドキュメンタリー「描き続けた“くらし”戦争中の庶民の記録」」の視聴感想集をまとめなおして投稿されたものを、そのままUPしました。